7/29/2008

JPY 220

東京人が今年は厳しいと言ふている暑さの中に居る。出張前に、7月
下旬の東京は暑だろうとそれなりの心構えはしてきたが、天気予報な
どをみると、東京以上に暑い地域が日本にはいくらでもあることに気
づいた。
日本は暑い。例外として、北部の一部はそれほど暑くもない、という
のが正確なところであろう。函館出身の在英18年のぼくにはもちろ
ん残酷なぐらい厳しい。バテぬよう、毎夜ビールなどできちっと涼み
ながら、残りの出張仕事を進めようと思う。
6月に来た前回の出張は1年ぶりのものだったので、いつもどおり肩
に力が入っていたが、今回は大分東京に慣れてきたような気がする。
ざっと、その慣れ具合を並べてみよう。
- 東京到着二日目には、エスカレーターで、さほどの疑問なく左側に
すっと立てるようになった。
- 外出時は、ハンカチを常時携帯するようになった。
- 風呂がほしいと思わなくなった。
- Suicaカード(JR系)が地下鉄でも使えることが分かったので、
Pasmoカード(東京メトロ系)を返却した。こうしたカードは定期入
れに2枚重ねると誤動作するので不便だった。ありがたい。ちなみ
に、Oyster と Suica を重ねるとどうなるか、明日にでも試験して
みようと思う。
- ちなみに東京メトロとは、営団地下鉄が民営化した後の通称である
そうだ。
- 朝9:30を過ぎると、ホームの喫煙場所でタバコが吸える駅があり、
毎朝助かっている(阿佐ヶ谷)。
- 街にいる人に道順を聞かずとも、プランタン前に一人で行けるよう
になった。
同時に慣れないものがある。最もまずいのは、すべてGBPに計算し
なおしてしまい、なんて安いのだと、無駄遣いしちゃうことである。
これはなかなか直らないが、ふと気づいた。そうだ、英国に居るとき
には、いつもJPYに計算しなおし、なんて高いのだと節約すれば・・・

7/17/2008

Being wild

三島由紀夫氏の産湯の記憶を読んで、ほんまかいなと思っていたが、
女流作家が同じような体験をエッセイに書かれているのを数年前に読
んだ。将来作家となるような乳児は、すでに頭の構造がどこか違うの
だろう、ありえるのだなあと思った。
凡人の僕が記憶ということを始めたのは、5、6歳前後だと思うが、
その頃家族が生活していたのは北海道の南部にある泉沢という小さな
村だった。車で函館市から西に1時間弱走ると、木古内という町に至
るが、その一部が泉沢というなかなか洒落た地名の村落である。海と
山に挟まれたごくわずかな平地、その幅は200メートルも無い思う
が、海岸線に沿うように国道228号線が走っており、この両脇に二
百世帯もあっただろうか、小さな家屋が建ち並ぶ村だった。山沿いに
は国鉄の線路が走っており、その脇に円筒形の小学校が建ち、体育館
の裏口には教育職員住宅が3件並んで建っていた。最も線路に近いの
が僕が数年間暮らした家だった。山まで徒歩20秒、海岸まで徒歩1
分という、実にワイルドな環境だった。
夕食やら家の手伝いに無理やり呼び帰されることはあったのだろうが、
子供達が外で遊ぶのに、親がついてくるということは皆無であった。
山や川で多少危ないこともあったのだろうが、年長の子がリーダーと
なり、なんとかする。この村の子達が10歳にもなれば、万一山で一
人で迷子になっても、雨さえ降れば1週間や2週間は難なく生き延び
るだろうと思う。喰える草の茎や花の葉等の種類を知っており、蕗の
葉を使った雨水の飲み方を知っているからであり、川に出くわしたら
しめたもの、と小さな頭が覚えているからである。もっとも、ヒグマ
に出くわしたら死んだふりをするという迷信は頭に入っていたが、運
よく経験したことは無かったので、本当にワークするのかどうか分か
らぬ。いずれにせよ、当時の日本の田舎の子供達というのは、おおよ
そこうしてワイルドに育ったのではないだろうか。そんな話を都会育
ちの同居人にすると、東京でも子供達が広場で遊んでいるところを親
がいちいち見ていたということは、やはり皆無であったらしい。
我が家のミニ同居人の学校のことをそろそろ考えねばならぬという。
まだ八ヶ月だというのに。いや、生まれる前から入学予約を入れるこ
ともあるそうな。いやはや。泉沢には幼稚園も無かった。円筒形の小
学に入学したら同級生は20名だった。社会性という意味でわが身を
振り返ると、確かに若干問題があるやもしれぬ。。。とはいえ、今3
0名の社員の皆さんと組織的な仕事をさせてもらっているし、友人達
にはとてもよくしてもらっている。ミニをナーサリーに入れることが
不可欠なのかどうも分からぬが、多分入れることになるのかなあとも
思う。思うが、泉沢村で育った父には、どうにもミニが気の毒なので
ある。学校の庭で先生や親の目の届く範囲で遊ぶのもやむをえないが、
少なくとも年に2度や3度は、少年達だけで山を探検したり、川で多
少勇気が必要な遊びを経験させてあげたいなあと思う。

7/07/2008

No.2

東京の友人が Jake Shimabukuro というウクレレ奏者のCDをお土産
に持ってきてくれた。アルバム・タイトルと一曲目はThe Beatles の
In my life 。無難。ふーんと思って2曲目を追ったら Going To
California とあるではないか。えっ、と思って早速聴いてみたら、
本当にZeppelinだった。Zepを選ぶというだけで僕はこのミュージシャ
ンを一気に評価した。全曲聴いて、本当はZepを1曲目に選びたかっ
たのではないだろうかと思った。
不精なせいか保守的なせいかは知らぬが、一度好みのアルバムに出会
うと、1年程同じものを延々と聞き続くことになる。Jakeさんには暫
くお世話になりそうだ。
日曜日にはこの友人をテニスに誘い、暫くぶりに一緒にプレーした。
サーブ練習が終わって玉を集めながら彼曰く、吉田さん、玉が重くな
りましたねえ。あら、そうかなア、てれるゼ、などとひとりごちてい
たら、そうなの雨で玉がぬれちゃったア、とコーチ。本当にこのコー
チは素敵な人だ。
そして午後はビール・ワインを片手に、コーチもミニも皆でウィンブ
ルドンのファイナルTV観戦である。これをしないと一年が終わらな
い。
ジャスティンの突然の引退があって、僕にとっての今年の女子トーナ
メントは精彩を欠いた。男子はご覧になった方も多いと思うが壮絶な
ファイナルだった。なんとしてもボルグをぬいて6連覇したかっただ
ろうと思うし、僕もそうしてほしかった。世代は変わらねばならぬ、
わかっている。しかし、一回だけ待ってほしかったなア。
フェデラーのテニスは基本形の究極であり、基本形がいかに強く美し
いものかを証明し続けてきた。プロのアスリートというのは、素人が
観たいシーンを提供することがその仕事の本質であろう。フェデラー
には、その仕事にやりがいを感じ続けてほしい。急に引退することは
考えないで欲しい。ランクなどはもうどうでもよい。No.2に落ちたら、
新No.1にとって、これほど嫌なNo.2はいないであろう。そんなあたり
が素人にはとても観たいところなのである。基本の美を永く提供し続
けてほしい。