7/28/2007

Arbeit

いまだと児童保護法かなんかでパクられるかもしれないが、僕は小
学4年生の時に、仕事をして対価を得るという楽しみを覚えた。当
時はこのあたり、おおらかだったのだろうが、さすがにおおっぴら
にはできないので、新聞配達の中学生か高校生の兄ちゃんの子分に
してもらい、集配所に入ってひたすらチラシの折込をする、という
バイトを続けた。対価は忘れたが、驚くほど安かったと思う。それ
でも小学生には大きな魅力であった。中学に入ると部活動を始めた
が永続きせず、結局その新聞配達集配所に戻り、こちらの方がはる
かに長くなった。毎日1時間強、重い新聞を120件程配達して、
月収が3,4千円だったと記憶している。田舎の中学生には、こん
な割の合わないバイトしか選択肢がなかった。今でも風邪などをひ
いて多少熱がでると、夢の中で、どの家に配達してどの家に配達し
てはいけないのか判断がつかず、汗をかくあたりで目が覚めて、あー
夢でよかったとなる。
以来、様々なアルバイトで稼いだ。高校生、というか僕は高専とい
う毛色の変わった学校へ行ったのだが、普段はサッカーとバンドで
忙しくバイトが出来ない。夏や冬の休暇中に稼ぐことになる。
XXコーラのルート・セールスのトラックに乗りこみ小売店を訪ね、
1ダースの木箱を4つ同時に持って移動する術を覚えたのは嬉しか
ったが、これは体力的・時間的に大変きつく、僕の中では今でもこ
の会社はバイトをこき使うNo1に位置している。日給3,500円。
旧国鉄の設備保守のバイトを近所のオジサンのコネで貰ったが、実
際には仕事が無い。精々列車の車軸に紙やすりを当てる程度。昼に
弁当食べて夕方風呂に入って帰ってくるようなものである。すなわ
ち単なる員数合わせなのである。組織体質がそうだったのか組合が
強かったのか知らんが、そういう社会の一面も見させてもらった。
これは一日3千円位だったろうか。
北海道らしいバイトとしては、当時活躍していた青函連絡船のキッ
チンがある。キ**クが雇用主であり、社員腕章を貰うと、青函連
絡船に自由に乗り降りできる(これはバイトをやめてからも暫く役
に立った)。往復で10時間の間に、レストランが6時間程開店し
ている。この間に皿を洗う、グラスを磨く、子供のゲロを処理する
というものである。この往復を1日に2回行う時と、3回行うとき
がある。3往復だと30時間となるわけで、当然仮眠はするものの、
さすがに陸が恋しくなる。そして、今でも謎だが、2回往復しても
3回往復しても、なぜか対価は5,800円固定なのであった。
更に北海道らしいのは芋掘りだろうか。これはカ*ビーが雇い主で
あったが、冷夏にてジャガイモの確保が難しかった年である。学生
バイトを雇って農協・農家に無料で送りこむ見返りに、ジャガイモ
の供給を確保するものであった。朝5時半にバイクに乗り、集合場
所の農協・事務所へ向う。ここでランダムに行き先の農家が決めら
れ車に押し込まれる。慣れてくると場所もわかって農家にバイクを
飛ばす。そして朝6時から夜6時まで、ひたすら芋を拾うのである。
日給6千円、すげえバイトだったなあ。我々の掘った芋が、ひそか
に農協以外に向けて出荷されていったのを目撃したこともある。し
たたかなものだなあと思った。
函館は港町ということで、倉庫商売も盛んだ。マイナス20度の冷
凍庫に入って、烏賊の冷凍塊を入出させる。寒いなんてもんじゃな
いが、その1時間後には外に出て、今度はトラックの荷台の中で大
汗かいて作業する。2週間も続けただろうか、とうとう風邪ひいて
ぶっ倒れた。さすがに親に、このバイトだけはやめてくれろ、と言
われたのでやめといた。
その他、場末のスナックでキャンディーズを演奏させられたり、こ
こには書けない数々のバイトもこなしたが、学生生活も終りに近づ
くと、多少知恵が出てくるものである。
僕のバイト人生はパチンコ屋で完結する。高専も卒業年になると自
由時間が多い。いや、本来は卒業研究に没頭することになっている
のだが、勘違いしてパチンコに没頭した。平日の朝から晩まで、毎
日同じパチンコ屋に通えば、当時のパチンコ屋のシカケだと、どう
しても勝ってしまうのだ。今はデジタルやら777とかなんとか、
店のコントロールが強いのだろうが、当時は毎日通って多少の予知
能力があれば大体勝てるのであった。万単位で勝つこともあった。
こうして平日はパチンコ屋に通い、気が向けば学校にタクシーで通
い、週末は優雅にバイクと遊ぶ(週末は素人衆が多く商売しずらい)。
今思えば夢のような学生生活の日々が過ぎ、卒業し、東京に出て社
会人となり、初めて手にした月給は、パチンコ人生の2週間分程度
のものであった。

7/21/2007

Smoking Ban

吸う人も吸わない人もご存知であろうが、英国では7月1日に
Smoking Banが施行となった。
イタリアやアイルランドでは昨年に施行を終えており、いつかは来
ると思っていたが、本当に来てしまった。僕はタバコを嗜む、なん
てえもんじゃなくて、言ってしまえば女房役のようなものである。
例えば物事を考えたり作ったりするとき、熟考一番、ひらめいたも
のを文章や図面にするなりプログラム言語に表現し推敲する。もう
良いぞ、というところでライターをカチッとつけ一服、頭を冷やし
てからまた次のステップに進む、という作業を20数年続けてきた。
アイスクリームで言えばウエハー役である。僕に何らかの仕事上の
作品があったとすれば、それは全てタバコと共に創作してきたもの
である。なので、10年前にオフィスでタバコが吸えなくなった時に
は驚いた。そんな環境で仕事なんて出来るのだろうかと思ったが、
当時は喫煙部屋を作ってくれたり、ビルの外に出て一服、なんとか
その習慣に切り替えた。それでも週末に自宅のPCの前に陣取って、
タバコを燻らせながら進める仕事効率の抜群の良さは否めなかった。
今回は、公衆の集まる場所からの全面禁煙である。レストランは良
い。これは明らかに人様に迷惑のかかる場であり、文句を言うほう
が無理であろう。しかしパブは困る。パブは、喰うという人間の原
始的、生理的欲求を満たす為のレストランとは明らかに違う場であ
り、もっと高尚な場なのである。難しい仕事の話もたまにはするし、
どうやって人を笑わせるか常に考えているし、大変に知的な場なの
である。こういう知的作業が必要な場からタバコを法律で追い出す
のは実に情け容赦の無い殿様のやることであり、これを決めた奉行
たちはきっと良い死に方はせんだろう。英国では施行にあたって様
々な案があった。例えば、食事を出すパブとそうでないパブに仕分
けし、後者はオーナーの一存で禁煙・喫煙が決められる、という英
国人らしい処理案があった。メンバー制のクラブでは、メンバーの
同意で喫煙OKにするという、これまた英国らしい処理法も意見さ
れた。結局は全て却下、全面禁煙となったのである。90年前半に道
路にスピードカメラが取り付けられ始めたとき、英国文化の良さが
また一つ消滅したと残念に思ったが、同様の感がある。
更に追い討ちをかけるように、我が家も7月1日からSmoking Banが
施行された。これには驚愕した。そんなことは全く考えていなかっ
たので一瞬頭が白紙になった。禁煙奉行は無論同居人であり、猛烈
な抗議を試みた。せめて2nd bed room で、と小さな声で最後の抗
議を試みるも一蹴、かくて我が家は全面禁煙となり、英国的良質文
化がまたひとつ消滅したのである。これを決めた人はきっと・・・や
めとこ;
ところで私の顔は真っ黒である。いや、タバコのヤニではなく、一
週間のビーチ・ホリデーの結果である(先週の投稿さぼりました、
ごめんなさい)。もともと地黒であり、更に日焼けしやすく、かつ
また赤くならずに当日そのまま黒くなる、という函館人にも相当珍
しい特異な体質なので、ちょっと日本人に見えなくなってしまった。
そんな顔が真っ黒の白髪のオヤジが自宅の前のストリートでぶらぶ
らタバコを吸っていると、通行人が嫌がる、いや、嫌がっているよ
うに僕が感じる。
ということで、大変肩身の狭い寂しい思いをしておる。いっそのこ
と止めてしまえと人は言う。言わば言え、30年も連れ添った女房役
をそう簡単には捨てらんわい。

7/07/2007

Freelander

僕の父親は国語の教諭をしていた。いわゆる文系であるが、当時ワー
プロを仕事に取り入れたり、今でもそこそこパソコンを使いこなしており、
多少は技術っ気があるのかもしれない。僕は根っからの技術系なの
だと思う。結局電気屋になったが、機械屋になってもいいかなと思
う時期があった。
中学に入って自転車に興味を持った。サイクリスト?名前は忘れた
が月間雑誌をせっせと読み、新聞配達で稼いだ金をパーツにつぎ込
み、親に買ってもらったごくふつうの黒い自転車が、見た目は軽快
なイエローのスポーツタイプに変身した。高校では無論バイクにな
る。今時のバイクはコンピューター制御されているのであろうが、
昔は機械のみの塊であり、そこそこ単純なもので、少年の技術心を
十分に満足させてくれた。
カワサキのTR250というオフロード・バイクのエンジンをばらばら
にしてシリンダーヘッドを磨いたりして楽しんだ。このバイクは月
に一度はポイントを磨いてタイミングをとってあげないと機嫌が悪
くなるしろものであったし、ケッチンがひどく何度も足に痣を作っ
た。機嫌がよいとその加速はすばらしいものがあった。可愛いバイ
クだった。その後ホンダの良心と呼ばれた CB 400 Fourという素敵
なバイクが愛機となった。函館から1時間弱で大沼公園という観光
場所に着くが、ここの湖畔が格好の私レース場となった。今思えば
実に危なっかしいことをしていたもんだが、していないよりはよかっ
たと今思う。男の子はなんでも体験すべきだ。
自動車の免許をとったあたりから、機械熱はさめ、ただの乗り物に
なってきた。とはいえ今でも車の運転は好きなほうだろう。何時間
乗っていても苦にならないし、天気がよいとドライブも良いもんだ
なあと思う。
何度かこのブログに登場した真っ赤のアウディーがとうとう我が家
を去った。10年以上も僕に付き合ってくれたんだから、写真ぐらい
撮っておけばよかったかと多少後悔している。そして我が家に新た
に登場したのは、濃紺のランドローバーである。このような高い
(値段ではない、車高のこと)車に乗るなんて思ってもいなかった
が、車好きの社員が最近新車に乗り換え、売りに出ているところを、
さっと買ったものだ。社員の中古を社長が買うのは変人だという声
もあるが、そんなことには僕はまったく頓着しない。僕が尊敬する
伊藤忠会長の丹羽さんは、社長時代にも電車通勤し、マイカーはカ
ローラだったそうな。あっはっは、あっぱれ社長。
この車は少なくとも7、8年程度は動いてくれるだろう。実に安く
売ってくれて、ありがたいと思う。動けば良いと思っていたが、乗
ってみると、とっても楽しい車なのに気付いた。 Free Lander と
いう車だそうだが、エンジンがなんとV6で2.5リッターという強力
なもので、重い車体なのに加速が大変良い。オートマなんだけども
マニュアル・モードがあったりして、機械心も擽ってくれる。当面
ドライブが楽しくなりそうだが、天は二物を与えず。大食いなのだ。
ペットロールのゲージが目に見えて減る。まあ年に2千マイルも走
らないので良しとしよう。長生きしてくれよオ。

7/03/2007

Transfer pricing

当社グループは4月に再編を行い、東京店が本社・親となり当店は
子となった。これを機会にちょいと勉強してみると、移転価格とい
うものがあることが分かった。
例えば、当社の本社である東京店が営業し、欧州での仕事を100円
で受注したとしよう。ごく当然ながら子会社である当社が実際の仕
事を欧州で担当する。わざわざ当店の競争相手に仕事を与える馬鹿
な親はおらんであろう。
さて当店ではこの仕事を70円で請け負ったとする。即ち東京本店は
30円の荒利となり、当店では売上げ70円からコストを差し引いたも
のが荒利となる。ここで、移転価格という概念では、はたしてこの
70円という請負い金額が、世間一般で取引されている価格とかけ
離れていないかどうかが問題となる。
仮に70円が世間一般と比較して大安売りだとすると、英国の税務
署が文句をつけてくる。もっと高く売れたはずだろう、その”はず”
の数字に対して企業税を払えと。
逆も真なりで、70円が世間相場よりも高かったとすると、今度は日
本の税務署が文句をつけてくる。子会社なので、高く買ってあげて
便宜を図っただろう、ついては高く買った分に対して企業税を払え
と。
上の例のような単純な売買のみならず、”技術”や”知的財産”に
も移転価格が適用される。親会社が開発した技術を使って、海外子
会社が製品を作って販売した場合、日本の税務署は黙っていない。
開発元である東京本社に対して、おまえはタダで技術を子会社に供
与した、ついては子会社がそこから得たであろう予想利益に対して
企業税を払えと。
親が我が子に愛情や教育や生きていくための食料や物資を無償であ
たえることは、ごくあたりまえの行為であろう。動物的な本能とい
える。そこに国家がしゃしゃりでて税金をとるのは何ゆえか。
さらに、移転価格の対象者は、国際的に活躍し既に企業税を各国で
納め、世界的な雇用機会を創造してきた企業であり、すでに十分な
社会的責任を果たしている。何ゆえ更なる税金、しかも世間一般と
いう実にあいまいな数字基準を持ったもので絞り上げる必要がある
のか。基準があまいために、この税務署調査には膨大な時間が費や
され(即ち税金が使われ)、膨大なディスピュートが発生するだろ
う。
僕は今のところ、この仕組みの本質が分かっていないのだろう。偉
い人たちが考えたものであろうから、様々な理由や利便もあるのだ
ろう、誰か教えてやってつかあさい。